19年ぶりの国産自動車メーカー誕生へ!還暦を迎えてからの苦労と挑戦を成功に導いた2つのひらめきとは −日本エレクトライク社長 松波登−


皆さんはご存じでしょうか。

19年ぶりの国産自動車メーカーとして国交省から認定を受けた会社、それが、川崎市発、電気三輪自動車を開発している「株式会社日本エレクトライク」です。

オート三輪と聞いて懐かしいと思う方もいるでしょう。イメージしにくい方は、映画「ALWAYS三丁目の夕日」や「となりのトトロ」などにも出てくる、日本の高度成長期を支えてきたクルマを思い浮かべてみるといいかもしれません。

東海大学と産学連携で開発を進めてきた日本エレクトライクの電気三輪自動車『エレクトライク』が、6月8日、国土交通省自動車型式認定制度の認定を取得した。これにより、日本エレクトライクは、晴れて新たな自動車会社として出発することになった。日本レクトライクの代表取締役松波登氏は、初年度生産100台、2016年度には200台の生産を目指すという。そもそもこのエレクトライク、電気を意味するエレクトリックと3輪車を意味するトライクを組み合わせた造語。参照:レスポンス

 

なんと!日本エレクトライクは、社長の松波さんが還暦の時に設立した会社だというから、驚きです。還暦を迎えてからの挑戦は想像もできない苦労の連続だったと思います。電気三輪自動車の誕生は、松波登社長を抜きには語れません。どのような苦労を乗り越えて国交省の認定まで至ったのか、今年67歳を迎えなお挑戦し続ける松波社長とはどんな人物なのか、今回のインタビューを通して、皆さんに少しでも何か感じてもらえたら嬉しい限りです。

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松波登(まつなみ のぼる) = 1948年生まれ。株式会社日本エレクトライク代表取締役社長。東海大学工学部動力機械科卒業後、トヨタ自動車のワークスドライバーとして活躍し、モンテカルロラリーにも出場する。その後父親の会社を引き継ぎながらも、車への思いが忘れられず、還暦を迎える2008年に日本エレクトライクを創立。電気三輪自動車に初めてアクティブホイールコントローラーを搭載したエレクトライクを誕生させる。

 

―クルマとの出会いを教えてください。

中学校時代は自転車ばかり乗っていましたが、3年生になった頃に友人宅にヤマグチオートペット(50ccのバイク)があったので、乗り回して遊んでいました。当たり前ですが、漕がなくても進むって、なんて素晴らしい!と感激しました。これをきっかけに動力がついているものに目覚めました。3段ギアとクラッチにもすぐに慣れて、もうとにかく動くのが楽しくて一日中乗っていました。まぁ本当は免許がないから運転したらダメなんですけど、昔はゆるかったしもう時効でしょ笑。

16歳の誕生日に原付の免許を取りにいきました。自動車免許も早く取りたくて18歳になる前から教習所に通って、ちょうど仮免試験の時が18歳の誕生日だったかな。クルマは父親が購入した、中古のトヨタ・コロナに乗っていました。裕福な家庭ではなかったけど、父親は脱サラをして炭鉱用の検定器を作る会社(株式会社東科精機)を立ち上げて経営していましたから。この頃はまだ、将来クルマに関わる仕事がしたいとはまったく思っていなくて、ただただクルマに乗るのが楽しい!という感じでした。

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参照:日本自動車博物館・トヨタ・コロナ

大学時代はどんな生活をされてたのですか。

とにかく遊ぶのが大好きで、勉強は全然出来なかったです。小・中学は東京学芸大学附属世田谷小・中学校で良い学校でした。友人はみんな、早稲田や慶應、日比谷高校から東大と優秀な学校に進みました。僕は中学からバイクに目覚めて勉強しない落ちこぼれで、東海大学付属相模高校へ進み、高校の自動車部でダイハツの『ミゼット』と出会いました。曲がるときに二輪走行をして楽しんでいましたね。東海大学工学部動力機械科に進んだのは、クルマに関係ありそうな学部だったからです。あとは、ラリーストの篠塚建次郎君と知り合ったのも大学時代。同じ学年で、彼が作ったラリークラブ『RAC・S』に、僕も参加して一緒に練習していました。大学1年生の時に買ってもらったホンダ・N360で、毎日1時間以上運転して平塚の大学に通い、1年で4万kmも走りました。大学に入ってからもほとんど勉強せずに、ラリーの面白さにどっぷりハマってしまいました。

当時は、スピード違反でお巡りさんによく捕まり、何回も免停になりました。ラリーでは速ければ褒められるんですよ!いや〜こんなに面白い競技はないなって思いましたね。この時も将来の事など特に考えていなくて、クルマ関係の仕事に就きたいとかレーサーになりたいなんて思ってなかったです。とにかく毎日が楽しくてしょうがなかった。

参照:「ダイハツ・ミゼット」「ホンダ・N360

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参照:篠塚健次郎オフィシャルウェブサイト

―大学卒業後、どのようにトヨタ自動車のワークスドライバーになったんですか。

卒業後、先ず三菱自動車の販売会社に入社しました。僕はラリーの実戦経験が無かったので、ラリーで強かったギャランを販売しながら、ラリー活動を続けました。販売エリアに多摩サーキットがありまして、そこの仕事を手伝う代わりに自由にコースを走らせてもらう事ができたので、よく平日の昼間にも練習していました笑。仕事では新人トップの販売成績を上げていたから、当時の初任給が5万円程度の時にインセンティブで十数万円もらっていました。そのおかげでラリーはけっこうお金がかかりますが、つぎ込むことができました。悠々自適に好きなことばかりやっていましたが、そんな生活も1年9ヶ月くらいしか続かず、父親の会社を手伝うことになってしまいました。当然安月給ですよ。

ただ三菱自動車のワークスドライバーでひとり欠員がでる事が決まっていて、ラリー成績が良かった私を入れると監督から言われていました。ですが結局、他の方で決まってしまい、この話もおじゃん。ラリーレースはもう無理だろうなと諦めていました。そしたらトヨタ自動車のモータースポーツ・17技術部の方から、これからラリーはどうするのだ?と聞かれまして。財政的に厳しいですよって答えたら、じゃあトヨタ車に乗れと言われて、ワークスドライバーとして参戦する事になりました。まさかこんな展開になるとは思っていなかったので、ビックリしましたね。その1973年にJMSラリー選手権で全日本3位、75年のラリーモンテカルロ出走、85年〜86年にかけてラリーニュージーランドに出走して1300ccクラスで4位になったのを最後に、引退しました。その後は、2012年から東京大学・草加教授のラリー授業で、ドライバーとして毎年ヨーロッパのヒストリックラリーに参戦しています。今年も2月にオランダで開催された「ホーランドラリー」に出走しました。

1986Rally NewZealand

1986年ラリー・ニュージランド クラス4位の写真

2013年サンレモラリーヒストリコ(東京大学・ラリー授業)の写真

―松波さんは、日本エレクトライクの他にも2つほど会社を経営されていると聞きました。事業の柱に成長した、「リアヴューモニター*」はどのような経緯でひらめいたんですか

父親が亡くなり、30歳のタイミングで東科精機の2代目社長として就くことになりまして。ただ父親の会社は想像していた以上に経営の実態が厳しく、大きな負債を抱え倒産寸前といった状況でした。そのうえ妻の実家が心配して、離婚までさせられてしまいました。決して浮気して離婚させられた訳ではないですから笑。子供が出来て36歳で再婚し、最悪の事態を考え、このタイミングで大型免許を取得しました。取得後は会社のトラックを自ら運転していました。

左写真:トヨタハイエース・モニター取り付け例  / 右写真:リアヴューモニター取り付け1号車(1998年3月)

そんなとき、ある夜に夢を見たのです。私がトラックを運転していて、ルームミラーを見ると、後席に置いたテレビの画面に後方の景色が映っていたのです。すぐに飛び起きて、これは良いアイディアでは?と思い、すぐにSONYのハンディカムと液晶テレビを買い、ワンボックス車の後ろにガムテープで貼って試してみました。当時は三菱ふそうなど大手企業も常時後方視認システムに取り組んでいたのですが、どこもあまり上手くいってなかったと聞きました。だからこそ、これがしっかりと実用化できるようになれば画期的な製品になるという自信がありました。試行錯誤の上で完成したのが、「常時後方視認システム リアヴューモニター」です。ただ1台20万円と高かったせいもあり、なかなか売れませんでした。ですが、少ないながらも導入してもらった企業は、交通事故の件数がみるみる激減していきました。取付け前と後の交通事故件数を比較しても明らか。データで実証されているという信頼性から認知度はたちまち広がっていきましたね。その後、全日本トラック協会にもデータを元に交渉をして、国交省経由で助成金を出してくれる事となり、一挙に普及していきました。

今では約6億円を売り上げる稼ぎ頭にまで成長してくれました。普及させる為には、協会や政府などをいかに巻き込むかも重要になってきます。製品に自信はありましたから。

リアヴューモニター = 株式会社日本ヴューテックが開発している、モニターに常時映るトラックの後方映像をルームミラーでみることにより、 安全運転が可能となるリアヴューモニター。安全運転の必需品であり、後方監視システムの決定版。

 

―電気三輪自動車の開発を進めていく上で、元日産エンジニアの千葉一雄さん*を口説いたと聞きました。

そうですね。電気三輪自動車の開発を始められたのも、彼を口説き落とせたからです。彼との出会いは、親交が深かった東京大学教授の草加浩平さんの紹介です。すぐに意気投合しました。彼は、日産自動車に入社して、一貫して新規自動車開発を担当し、電気自動車開発のプロジェクトマネジャーとして、ハイパーミニのチーフエンジニアなどを務めていました。その後は東京電力で電気自動車用急速充電器のインフラ開発をおこなっていました。経歴でわかるように彼は電気自動車開発のスペシャリストなんです。彼がいれば自動車会社ができると思いましたね。僕はあまり物事を深く考えない単純な性格なので。どうしても一緒に仕事がしたいと思い、誠心誠意、情熱を持って口説きましたよ。それが2008年頃の夏で、10月の還暦誕生日に(株)日本エレクトライクを創りました。設立までの期間はとても早かったですね。

千葉一雄 / 株式会社日本エレクトライク 取締役技術部長 = 1974年東京大学工学部航空学科卒業後、日産自動車に入社。油圧式降臨操舵システムHICASの開発、商品本部、商品主管スカイラインGTR(R32・R33)開発プロジェクト担当、電気自動車開発プロジェクトリーダーとして北米向けALTRA-EV及び国内初の型式認定者ハイパーミニのチーフエンジニアを務める。2006年に東京電力に入社。電力供給側の業務に従事。2008年に現職の日本エレクトライク設立メンバーとして活躍中。

 

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参照:みんカラ・ハイパーミニ

―千葉さんと出会ったことがきっかけで、自動車メーカーを作ろうと思ったんですか。

そうですね、千葉さんがいなかったら何もイメージがつかない状態でした。一応2005年頃から東海大の学生と産学連携で3年間、趣味の延長という感じで電気自動車を作る取り組みをしていたんですよ。「世界一安全で環境に優しい電気三輪自動車を産学連携で開発する」をビジネスプランとして、地元川崎市のビジネスオーディションに応募したら、起業家大賞を頂きまして。まぁでも1年目はまったくお金が無くて、学生にはなにか資料でも調べさせてお茶を濁そうかと思っていました。すると学生から、「近くのモーター屋に売れ残りのコムスを安く譲ってもらえるらしいです!ホンダのジャイロを操縦席につけてみてはどうですか!」という提案を受けました。詳しく聞いてみると、100万円もかからないという事もあり、ミゼットをモデルに試作車を作ってみました。走行テストをして、オーバーステアを体験しました。普通の三輪車では絶対に起きないので、これを制御できれば面白いクルマができそうだとヒラめきました!2年目の時には川崎市から600万円程ご支援頂いた事もあり、さらに試行錯誤して改良していきました。そのタイミングで千葉さんと出会ったという流れですね。学生との産学連携で大賞を取ったこともあり、これで終われないだろという良いプレッシャーがありましたから。

参照:日本エレクトライク 

―千葉さんは、松波社長に出会った時の印象はどうでしたか。

いい年だったので、引退して田舎で畑でもやり、のほほんと暮らそうかなと考えていたんですよ。でももう少し勉強したいなという気持ちもありました。そんな時にこの話を聞かされ、今までの経験やプロジェクトマネージメントをやっていて慣れてはいたので、2年くらいなら、と思い協力しました。ですが気付いたらもう7年もいますね。まぁはじめから2年では厳しいだろうなとも思っていたし、見通しがないのもなんとなくは理解していましたが。

―販売価格100万円を切るためにどんな苦労がありましたか。

実は価格の問題で途中挫折したのです。ある企業に話をしに行った時に感じたのが、販売価格100万円を切らなければ電気自動車を普及させられないという現実です。ただ、国産のパーツから組立てていくとどうしてもコストが高くなるのです。これが一番の大きな問題でした。電気自動車はエンジンがないので、中小企業でも安くつくれるという情報を鵜呑みにしていました。価格の問題だけはすぐに解決できるものでもなく、どうすればよいか途方に暮れてしまいました。ちょうどその頃にインド自動車メーカーの「タタ・モーターズ」から「ナノ」という低価格で買えるクルマが発売されたのです。たしか23万円くらいだったかな。

東南アジアに仕事で行った時に見ていた、インドのオートリキシャ「三輪車」なら、20万円以下で入手できるはず。これを元に改造すればいけると直感的に思いました、僕にとってはオーバーステア体験が第1のヒラメキなので、第2のヒラメキです笑。

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参照:NAVER・タタモーターズ/ナノ

それからは「バジャージ・オート*」と接点を持とうと、インド大使館にかけあってみたり、関係ある人にあたってみたりと1年間くらい色々とやりました。結果はまったくダメでしたね。今思えば無駄な1年間だったな。まぁそれでも諦めず動いていたら、小・中学校時代から親友の衆議院議員・森英介君より「バジャージ・オート」を紹介してもらえる事になりました。紹介という事と千葉さんと部下が英語に堪能だったこともありまして、交渉はスムーズに進みましたね。最終的に1台でも10台からでも安く仕入れる事ができるようになりました。このクルマはガソリン車なので、車体だけを使い、エンジンの代わりにモーターとバッテリーを搭載することでコストを抑え、100万円を切る価格で販売できるメドがついたのです。

普通中小企業だったら絶対に相手にされないですが、紹介してくれた森英介君のおかげでしたね。よく1台や2台とかのロットで安く輸出してくれました。彼にはとても感謝しています。

バジャージオート = インドのマハーラーシュトラ州プネーに本社を置く自動車製造会社。インド第2位のオートバイメーカーであり、世界最大の三輪自動車メーカーでもある。

 

―自動車メーカーを発足するにあたり、一番苦労した点はなんですか。 

やっぱり一番苦労したのは資金繰りですね。うちには素晴らしい人材がいるので、高い技術力があります。ただ、ベンチャー特有の資金繰りとの戦いに関しては避けては通れません。きちんと事業をやっていれば、きっとどこかの企業が技術を買ってくれるだろうと信じて今日までやってきました。僕達は儲ける事が目的ではなく、全員が良いモノを作りたい!という技術者が集まっています。売上げはその先についてくるものだと思います。 実は日本ヴューテックのリアヴューモニター事業も12年間赤字だったのです。今は年商6億くらいまでいき、利益は6000万円程度でています。全てその利益を電気三輪自動車につぎ込んでいるものの、正直足りないです。まぁ当初の資金繰りを考えればだいぶいいですけどね。苦労はしていますが、こうやって取材をされる事も多くなり、少しずつ認知度が広がってきているので、なんとかいけそうかな?という良い兆しは見えてきています。

―そもそも、「型式認定」というのは誰でも取得できるものなんですか。

簡単にはいきませんが、取得できると僕は思います。型式認定を取得しようと行動したのにも色々と理由があります。電気三輪自動車を日本郵便で使って頂きたいと思い、話をしに行ったのですが、現場からは国土交通省の型式認定が取得されていないクルマなんか危なくて職員を乗せられないという一点張りで跳ね返されてしまいました。価格に関しても極力抑えたいので、助成金を出してほしいとお願いに行くと、型式認定取得車両でないとダメ。

型式認定を取得する為には、当たり前ですが、量産しても品質を保てる安全なクルマであることを示さなくてはいけません。その為チェックがとても厳しい。認定をとる法律を全てクリアしないといけないですし、性能の基準など細かい条件がたくさんあります。付随した書類もたくさんあり、とても時間と労力がかかります。千葉さん含め、スタッフには本当に頑張って頂きました。心から感謝しています。

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―今後の展開としては、どのように考えているんですか。

まずは、自動車メーカーとして認めて頂くことと、エレクトライクの性能を認めて頂くことが何よりも先決です。国際特許を申請中です、将来的に東南アジアに技術提供をできたらとも考えています。

東南アジアでは200万台以上の三輪車が走っていて、排気ガスをたれ流し、健康被害などが問題視されています。車検制度のない国や、あってないような制度だったり、精製の悪いガソリンを使用していたりなど、一筋縄では解決できない問題が山積みなんです。だからと言って諦める訳にはいきません。その環境を整える必要があるのは誰の目にも明らかなので、我々の電気三輪自動車によって、解決していきたいと考えています。毎月6万台ずつくらい電気自動車に入れ替わっていけば、あっという間にアジアの空がキレイになると思います!でもまずは国内です。2015年度の販売目標として100台、2016年度には200台を売れるように日々頑張っていかないといけませんね。

参照:三菱電機

―千葉さんは、どのようにお考えですか。

エレクトライクをご覧頂ければとわかると思いますが、デザインはバジャージ・オートほぼそのままです。僕は、認定をとっている“ベースフレームシャーシ”を流通させたいと考えています。要は材料として売りたいということです。完成形を売るのも悪くはないですが、販売ネットワークも含め色々と採算的に考えても厳しいと思いますから。例えばデザイナーを抱える会社に20台程度買って頂き、デザインという付加価値をつけて、販売してもらうという仕組みはいいですね。購入する企業から見ても、ベースフレームシャーシを作るのは中々難しいと思うので、分業してやっていく事は、WinWinだと思います。

当社の電気三輪自動車は、リアタイヤのアウトホイールモーターです。フロントタイヤは操縦する役割をしています。だからデザインだけではなくて、クルマ自体も色々とカスタマイズしていき、新しい価値として生まれ変わると面白いかもしれません。あとは政府や地方自治体が、電気自動車を普及させる為の画期的な条例ができないと普及は中々進まないと思います。松波のように、さまざまな人たちを“巻き込む力” がとても大事ですね。

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取締役技術部長 千葉氏とCar Design Academy校長の仲宗根

―編集後記

取材を通しての印象は、とにかく何事も楽しんでやる!小さい事は気にせず、やってみよう!という感じですね。とにかくパワフルな会社です。日本エレクトライクのように、高い技術力があれば、ベンチャー企業であろうと、自動車メーカーとして型式認可を取得できる。これは多くの方に、勇気と希望を与える素晴らしいことだと思います。大きな問題に直面しても、決して諦めず考え行動し続ける。そして困った時に周りが助けてくれるのは、幅広い人脈をお持ちである松波社長の人望の厚さであるとも思いました。さらなる大きい夢に向かって挑戦し続ける日本エレクトライクから、今後も目が離せません!

―日本エレクトライクの電気三輪自動車について

こだわりは、なんと言っても「安全性と低価格」です。まず安全性という点では、昔のオート三輪はカーブの際、車体が不安定な状態となり、転倒するケースが多くあリましたが、この欠点を克服しています。ハンドル操作をセンサーで判定し、左右車輪の回転数を制御することで、アンダーステアを抑え、安定したコーナーリングを実現しています。(国際特許申請中)簡単に言えば、150kgの荷物が積める荷台がついていながら小回りがきき、最高時速は50kmという事です。

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ちなみに1回の充電で走れる距離は、30kmと60kmの2つのタイプがあります。家庭用コンセントでも充電できます。主に宅配などで使う業務用の車両として販売される予定ですが、排気ガスが出ないという点で、室内イベントやスポーツイベントなどでも活躍できそうかなと思います。

詳しいエレクトライクの詳細やお問い合わせはこちらより、ご確認ください。

<電気三輪自動車・日本エレクトライクについて>

参照:日本エレクトライク

参照:時事通信社

 

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