【前編】現役のカーデザイナーに会ってきた!ーサンティッロ・フランチェスコさんの場合ー


シリーズ第5弾を迎えました今回は、前々回にインタビューをさせて頂いたカーデザイナー、根津孝太さんからのご紹介により実現しました。

 

 

【インタビュー】現役のカーデザイナーに会ってきた!

—znug design(ツナグデザイン)根津孝太さんの場合-

 

ジウジアーロ率いるイタルデザインで腕を磨き、ピアッジョに転職した後、再度イタルデザインに戻り、後にメルセデス・ベンツ、トヨタ自動車、本田技術研究所を経て、現在は株式会社ネプチューンデザインを立ち上げご活躍されている、サンティッロ・フランチェスコさんです。

 

海外で働きたいと思われている方にも、参考になるような貴重なインタビューとなりました。

 

 

現役のカーデザイナーに会ってきた!サンティッロ・フランチェスコさんの場合

サンティッロフランチェスコ

サンティッロ・フランチェスコ=1967年イタリアローマ生まれ。1989年にIAAD(工業デザインの専門学校)を卒業し、同年、イタルデザインの関連会社であるフォームデザイン入社。その後、1991年にイタルデザイン入社。1994年にピアッジョ、1995年にイタルデザイン、1998年にメルセデス・ベンツと渡り歩き、1999年、トヨタ自動車に入社すると共に来日。2004年に本田技術研究所へ転職した後、2007年、株式会社ネプチューンデザインを設立。現在、クルマ・バイク・自転車をはじめ、様々なプロダクトのデザインとコンサルティング業務を出掛けている。

 

クルマとの出会い

1967年イタリアのローマで生まれ、その後すぐに父の故郷である南イタリアのサプリに移り、10才まで過ごしました。

とても海が綺麗な港町で、鉄細工の職人だった父を横目に、毎日自転車をいじったり絵を描いたりしていました。

 

その頃から、デザインはいつもわたしの周りにありました。

5歳のとき、小さな街でスポーツカーを見つけました。

マセラティ・ボーラは、貧しい南イタリアに突然現れた未来の乗り物、という感じでした。

 

ドアサイドには、Giorgetto Giugiaroと入っており、「自分の名前が入ったクルマに乗ってみたい。」と思いました。

 

 

これが、わたしがカーデザイナーを目指すきっかけとなった出来事でした。

Maserati_Bora

マセラティ・ボーラ=1971年から1980年まで生産された高級スポーツカー。マセラティは1968年、当時親会社であったシトロエンからの提案を受け、ランボルギーニ・ミウラに端を発したスーパーカーの条件とも言える『ミッドシップ・2シーター・スーパーカー』というコンセプトを踏襲し、プロトタイプティーポ117(Tipo117 、後のボーラ)を制作。1971年のジュネーヴ・モーターショーでボーラとして発表、マセラティ初のミッドシップ2シーターとなる。デザインはマセラティ・ギブリと同じくジョルジェット・ジウジアーロが担当。1979年、生産終了。総生産台数530台。

フランチェスコと車

幼少期のフランチェスコさん

 

その後、父が転職したため、母の故郷であるスカレアへ移ることになり、高校までは3人の弟たちと共に親元で過ごしていました。

高校は家から70Kmも離れた工業高校の電気機械科で、デザイン科はありませんでした。

お小遣いを全て自動車雑誌につぎ込み、絵は独学で続けました。

スカレア

南イタリア=イタリアの産業は、北イタリアに集中しており、学校はおろか、仕事もほとんど無い地域で失業率も南は北の4倍。 その中でもスカレアは、北イタリアの人々が夏のバカンスを過ごす別荘地となっている。写真下は自宅バルコニーからの景色。ちなみにフランチェスコさんの故郷スカレアからトリノまでは1000km以上。

 

わたしが絵を描いていると、「夢で飯が食えるか!地道に働くことを考えろ!」と先生たちに言われました。

 

そんなある日、いつもの通り道を愛車モペットで走っていると、突然、横から出てきたクルマにはねられました。

大腿骨を骨折し、ベッドに横になっているしかない3ヶ月の入院生活を強いられました。

 

その間は、自動車雑誌を読みふけることと絵を描くことに集中しました。

ベッドに横になっているしかない3ヶ月の入院生活。

そのような事情を全く考慮してもらえず留年することになりましたが、後にデザイン学校に合格できた一因だと思っています。

 

3ヵ月後退院し、新しい同級生たちと共に2度目の4年生を迎えることになりました。

相変わらず授業中はクルマの絵ばかり描いていて、先生に怒られていました。

雑誌に載っているカーデザインコンテストにはすべて応募し、何度か入選して、それだけで嬉しかったです。

 

友人たちが就職を決める中、わたしは就職活動をしないまま5年生を終え、IAADを受験しました。

学校は、入学まで約1ヶ月を切った7月だったため、すでに規定人数に達していました。

そのような時期の入学希望だったので「南の田舎者が!」と非常識をなじられましたが、運よく作品を見てもらうことができました。

 

コンペの入賞作品や描きためていた作品から、よりすぐったものを提出し、面接では「絵はどこで勉強したのか」と聞かれ、「独学です」と答え、終了しました。

受験者はみな、すでに絵を専門的に学んできているのだ、と知りました。

 

数日後、合格通知が自宅に届いたのですが、入学金や学費、生活費を合わせると、父の年収を越えてしまっていました。

弟が3人もいましたし、たとえ学校を卒業しても確実に仕事に就けるか保証はありません。

 

父は学校へ断りの電話をしている時、突然受話器を置き、「今からトリノのおじさんのところへ電話する。2年間おじさんの家に世話になれ。」とわたしに言いました。

耳を疑いました。目が熱くなりました。

 

「学費はすぐでなくていいですから、息子さんを我が校に預けてください。」と学校側から申し入れがあったのです。

 

1987年、親戚のサポートもあり、無事IAADへ入学しました。

 Instituto D’arte Applicata e Design Torino。通称IAAD。

学校の講師はFIATなどのメーカーや、ピニンファリーナやイタルデザインなど有名カロッツエリアで働く現役カーデザイナーたちで、仕事を終えてから教えに来るため、授業は夜間でした。

 

現役カーデザイナーから、直接指導を受けられることはすばらしい体験であるのと同時に、将来カーデザイナーになれば、その後の人脈にもつながります。

ちなみにわたしも後に、母校でデザインを教えることになりました。

 

あまり知られてないのですが、イタリアは、南北にとても長く、南イタリア出身者に対して「テローネ」という侮蔑用語で呼ぶことがあります。

同級生の殆どは、学校が終わるとパーティーだ、コンパだとみんなが教室を後にしても、わたしはひたすら画を描いていました。

結果を出さなければスカレアへ帰れない、というプレッシャーを自らに課し、毎日一生懸命練習しました。

 

イタリアでは、就職先は大抵卒業後に決まることが多いですが、わたしは練習のかいもあって、卒業前にジウジアーロデザイン関連の会社へ就職が決まり、学校もトップの成績で卒業することができました。

 

ジウジアーロデザインは、クルマ以外のプロダクトをデザインする会社で、クルマのデザインは、イタルデザインが行います。

カーデザイナーではありませんでしたが、そこでジウジアーロには一歩近づきました。

 

入社してからは、カメラや電車、クルマのリアなど様々なものをデザインし、とても忙しかったです。

 

日本のテレビ会社のニューススタジオもデザインしたのですが、何パターンかのアイデアを提案したところ、その1案がジウジアーロの目にとまりました。

それまでにも、わたしも同僚たちもみな作品を、ジウジアーロの元へ持ち込んでいました。

 

そして、ジウジアーロから直接「わたしの元へいらっしゃい。イタルデザインへ。」と言われ、震えが止まりませんでした。

これが、わたしの念願だったカーデザイナーになった瞬間でした。

 italdesign-giugiaro

ジウジアーロ=ジョルジェット・ジウジアーロ。イタリアの工業デザイナーで、イタルデザインの設立者。数々のデザインプロジェクトを手がけ、1999年にはカー・デザイナー・オブ・ザ・センチュリー賞を受賞し、2002年にはアメリカ・ミシガン州ディアボーンの自動車殿堂 (Automotive Hall of Fame)に列せされた。カーデザインアカデミー監修の栗原典善氏も、同氏のもとにかつて在籍していた。代表作は、コチラ。

 

 

1991年5月、わたしは晴れてイタルデザインの一員となりました。

イタリア南部出身のデザイナーは珍しい存在でしたが、それ以外にもスペイン人、韓国人、そして日本人も2人いました。

 

イタルデザインで働くカーデザイナーは、常時12、3人くらいです。

それだけの人数で、世界中のクルマをデザインし、3プロジェクト並行は当たり前。

一人ですべての工程をこなします。

 

「デザインは、憧れの対象でなければならない。そして、実用的でなければならない。」

 

これはジウジアーロの教えです。

わたしはジウジアーロデザインのマセラティ・ボーラに憧れて、クルマが好きになり、カーデザイナーになりました。

クルマが、ただ人や物を運ぶツールに過ぎず、見る人が憧れを抱くデザインでなければ、若い人がクルマに興味を持たなくなります。

 

クルマは、洗濯機や冷蔵庫のように絶対必要というものではないので、憧れのないところに、進歩は生まれないと考えています。

 

コンシューマー(消費者)を失えば、デザイナーも生まれなくなるのです。

「かっこいいとは何か」デザイナーは、その概念を言葉の羅列ではなく、形で表現します。

 

「かっこいい」か「かっこ悪い」か。それのみが判断基準です。

どうかっこいいのか、どうかっこ悪いのかの議論はしません。そのような議論は不要なのです。

 

ジウジアーロはわたしのような新人の意見でも、良いと思えば認めてくれました。

「デザイナーは技術者である」これもジウジアーロの教えです。技術あってのデザイン。

飾るだけのデザインはしません。

 

意外に思われるかもしれませんが、クルマのデザインは窮屈で制約がとても多いのです。

カーデザイナーは、パッケージからはみ出さないデザイン力が必要です。

例えば、見た目はコンパクトでも、容量は大きくしなければならない場合があります。

 

Ferrari612のスカリエッティがベースのFerrari GG50。

スカリエッティより全長は短いけれど、燃料タンクの配置をリアシート後ろからトランク下へ移して、容量はそのままを保ちながらコンパクトに見せています。

さすがジウジアーロです。「50年カーデザイナーをやってきて、初めて自由にクルマのデザインをした」とも言っています。

 

コンパクトがいいのはクルマだけではなく組織も同じです。

1台のクルマに大勢で携わると、そのクルマの個性は乏しくなり、出来の良し悪しの責任の所在が曖昧になります。

ジウジアーロ

ジウジアーロと東京モーターショー2005で再会したときの一枚

 

転職。そして日本へ。

イタルデザインに入社してしばらくすると、ジウジアーロの下で仕事をする機会に恵まれました。

 

そのクルマはMaserati3200GT、まさに「ジウジアーロの元でマセラティをデザインする」という念願だった目標への第一歩です。

マセラティ3200GTは、フィアット傘下からフェラーリの傘下となった第一弾のクルマで、新生マセラティです。メーカーも力が入っていました。

 

本当にエキサイティングな仕事でした。また、それと同時にわたしは、デザイナーにとってメーカーの経験は必要だと考えるようになっていきました。

 

そのような時、ピアッジョからのオファーがありました。

ベスパで有名ですが、元々は船舶や航空機の会社で、第二次大戦後に二輪を開発し、ヨーロッパ最大手のバイクメーカとなりました。

 

オファーの際、「大型バイクのデザインをして欲しい」と誘われ、思い切って転職しました。

企画からデザイン、製造管理、工場出荷まで、製造工程の初めから最後まで関わることができました。

わたしにとっても、バイクのデザインは憧れでもありました。

しかし、大型バイクのプランは延期に継ぐ延期で、スクーターデザインの日々を送っていました。

当時のピアッジョは、スクーターのみのラインナップだったのです。

 

そのような、わたしが失意のどん底にいることを聞いたジウジアーロが、再び私をイタルデザインへ呼び戻してくれました。

 

1995年11月、あまり例のないことでしたが、わたしはイタルデザインへ戻りました。

 

 【後編へつづく】

 

【後編】現役のカーデザイナーに会ってきた!ーサンティッロ・フランチェスコさんの場合ー

 

 

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