スペシャルインタビュー|カーデザイナーという生き方|トヨタ・カリーナEDなどをデザインした木村徹氏


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木村徹(きむらとおる) = 1951年1月17日、奈良県に生まれる。武蔵野美術大学を卒業し、1973年トヨタ自動車工業株式会社に入社。米CALTY DESIGN RESEARCH,INC.*1に3年間出向の後、トヨタ自動車株式会社の外形デザイン室に所属。ハリアーなどの制作チームに参加し、アルテッツァ、IS2000 などでは、グッドデザイン賞、ゴールデンマーカー賞、日本カーオブザイヤーなど、受賞多数。愛知万博のトヨタパビリオンで公開されたi-unit*2のデザインもチームでまとめた。同社デザイン部長を経て、2005年4月から国立大学法人名古屋工業大学大学院教授として、インダストリアルデザイン、デザインマネージメントなどの教鞭をとった。2012年4月から川崎重工業株式会社モーターサイクル&エンジンカンパニーのチーフ・リエゾン・オフィサーを務める。その他、グッドデザイン賞審査員、(社)自動車技術会デザイン部門委員会委員(自動車技術会フェローエンジニア)、日本デザイン学会評議員、日本自動車殿堂審査員(特定非営利活動法人)、愛知県能力開発審議委員会委員長、中部経済産業局技術審査委員会委員長、豊田市景観基本計画策定有識者会議委員、有限会社木村デザイン研究所デザイナー など過去、現職を含め公職多数。

*1 米CALTY DESIGN RESEARCH,INC. = 1973年にトヨタ自動車がアメリカ合衆国に設立したデザインスタジオ。ニューポートビーチとアナーバーに拠点を置いている。エクステリアデザインを主な業務として行っている(wikipediaより)

 

*2  i-unit = 2005年愛知万博にてトヨタ自動車が出展した、未来型パーソナルモビリティ。2003年の東京モーターショーに出展した「PM」というコンセプトカーをさらに発展させたもの。会期中は愛知万博における展示品の一種のシンボルとしてテレビなどで多く取り上げられていた。

(wikipediaより)

 

—クルマとの出会いについて教えてください

奈良県で生まれたのですが、当時は道もしっかりと舗装されていなくて、ボンネットバスが砂煙を上げて走っているようなそんな時代でした。そんな中、ごくたまに都会の匂いのするかっこいいクルマが走っていたりするんですよね。僕が小学校の低学年くらいの頃でしょうか。とてもかっこよくてね。みんなの注目の的ですよ。その頃の男の子はほとんどがクルマに興味があったのではないでしょうか。

家が酒屋を営んでいたので、配達に使うミゼット*3とスズライト*4があり、よく乗っけてもらっていました。クルマはとても身近な存在でしたが、その頃はまだデザイナーになりたいと考えたことすらありませんでした。

 

*3 ダイハツ・ミゼット = ダイハツ工業が生産していた三輪自動車である。Midgetは英語で「超小型のもの」という意味の単語で、小型、チビな車という想いを込めて名付けられた。

(wikipediaより)

 

*4 スズキ・スズライト = 日本の自動車会社の鈴木自動車工業(現・スズキ)が開発し1955年に発売した軽自動車であり、同社が初めて生産した市販型4輪自動車である。2008年に「その後の軽自動車のあり方を示唆、歴史に残る名車」と評価され日本自動車殿堂歴史車に選ばれた。

(wikipediaより)

 

—どんな子どもだったんですか?

本当に普通の子どもでしたよ。お絵かき大会で賞を頂いたこともありますが、毎日絵を描いていたというわけではありませんし。木をナイフで削っては、いろんなオモチャを自分で作っていました。いまの時代は危なくて子どもに刃物を持たせることはあまり無いかもしれませんが、昔の子どもは皆そうやっていました。間違って足を切って血がドバドバ出たりもしましたが笑

 

—カーデザイナーを志したのはいつ頃からですか?

真剣に進路を考えるようになってからですね。高校2年生のときにはじめてカーデザイナーになろうと決意したように思います。美大に行かないとカーデザイナーにはなれないよ、と美術の先生に教えてもらったんですかね。それで、美大を目指すことが決まり、美術部に入りました。美大には実技試験があるので、石膏デッサン、静物画の鉛筆デッサンなどを練習したり。

今でも趣味で油絵を描く。ちなみに、3枚の原画のサイズはすべて100号(1620mm×1303mm)

 

そうやって入学し、工業デザインを学びました。とは言っても実際にカーデザインを本格的に学べるわけではありません。卒業制作でキャンピングカーを作りましたが、基本的にはプロダクトデザインを学びます。デッサンからスタートし、3年生の頃には椅子を作ったり。

プロダクトデザイン事務所でバイトもしていました。バイトなのでお金を稼ぐという意味ももちろんありますが、それよりも自分の身になるような仕事がしたいという気持ちのほうが大きいですよね。

 

—実際の就職活動はどうされたんですか?

大学の就職課に「トヨタから募集が来たら僕に連絡ください。」と言いに行きました。誰かが先に応募して、うちの大学からの枠が無くなっちゃうといけないので、先取りするためです。そのおかげもあり、ちゃんと僕に案内がきたので、教授に推薦状を書いてもらって、実習に行きました。

 

—きっちり予約していたんですね笑

2学年上の先輩に、うちの大学からトヨタに初めて入った先輩がいて、その方から色々と情報を得ていました。そうそう、スタイルオートという車のデザインを学ぶサークルのようなものがあり、そこに先輩は所属していましたね。

実習は、テーマを与えられて、コンセプトを立てて、スケッチしてレンダリング。プレゼンボードを作って、プレゼンして終わりです。泊まり込みで1週間くらいだったかな。実習の仕組み自体、今とあまり変わらないと思います。若いので、毎日大騒ぎでしたね。お昼は社員食堂で頂くのですが、社員の方から苦情がきていましたから笑

実習が終わり、その後、試験を受けに来るよう通知があり、学科試験と面接を受け内定を頂きました。その頃は、どんどんデザイナーを増やそうという時期で、10〜20名程度が実習に参加していたのですが、そのうちの8名ほどが入社しました。

入社してからは、まずは工場で実習をして、その後、夏の暑い時にディーラー実習です。地域のディーラーに配属されて毎日飛び込み営業。大半は話なんか聞いてくれませんよね。ですが、毎日飛び込み営業をしていると、「クルマを買うときは君から買いたい」と言ってくれる方が出てきたりするんですよね。大阪の阿倍野という地域をまわっていたのですが、最終的に1ヶ月で3台売りました。

営業所に電話がかかってくるんですよ。そうすると、先輩の営業マンと一緒に行って契約する。工場勤務やディーラーで働くなんて、もちろんはじめての経験でしたからとてもためになりました。

入社してからようやく半年後にデザイン部に配属されます。最初にしたのは、助手のような仕事です。図面を描いている先輩に、鉛筆を研いでサッと渡したり。手術で執刀医にメスを渡したり汗を拭いたりする人がいるでしょ?まさにあのような感じですよ。

そうこうしているうちに、オイルショック*5が起きました。石油の値段が跳ね上がって、世界中パニックになりました。

 

*5 オイルショック = 1970年代に2度あった、原油価格高騰による経済混乱のこと。石油危機、石油ショックとも称される。(はてなダイアリーより)

 

もちろんプロジェクトは止められますので、やることは何もありません。「車なんか売れなくなるのにお前は何をしに来たんだ!」と訳のわからないことを言われたこともありました。入社してすぐに車を買ったんですが、オイルショックで日曜日はガソリンスタンドもお休み。カーデザインをするためにトヨタに入ったのに、プロジェクトも止められるわ、クルマにすら乗れないわで、今思うと散々でしたね。

 

—トイレットペーパーを買い占めるためにスーパーに人が殺到している様子をテレビで見たことがありますが、その煽りをもろにくらってしまったんですね。ちなみに、はじめて仕事は何ですか?

マークⅡセダンのリアコンビランプです。モデルチェンジをするということで、一番後ろの面を担当しました。何も分からなかったのでとても苦労しました。後ろのマークも描いたのですが、何回も描き直しをさせられるんです。途方に暮れますよ。全く終わりが見えないのは辛いものです。ですが、そうやってプロのレベルを体で覚えていくんですね。自分で描いたものなので、良いと思って上司に持っていくんですが、厳しくフィードバックされる。「確かにこれって汚いな」という気付きから段々と「このレベルだったらまた描き直しだな」「このレベルまでもっていかないと終わらないぞ」と学習していくんです。

2015-02-20 12.0 はじめて自分のレンダリングがカースタイリングに掲載された

 

—とても大事なことですね。

その次がカローラ・スプリンターのハードトップですね。まぁひどい出来だった。モデラーさんがフルサイズ作ってくれたんですが、いろんなデザイナーが通りがかるたびに「こりゃ酷いな」とか「なんだこれ」と聞こえるんですよ。本当に恥ずかしくて、人が通るたびに陰に隠れていました。

この時に、与えられたパッケージは守るものではなく、理想のイメージに向けて外すもの、ということを学んだように思います。これで吹っ切れて思いっきりいい加減な絵を描いて、それがきっかけで「美しくなければクルマではない」というCMで有名な2ドアのハードトップが生まれました。

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フロントウィンドウの傾斜は28度。これが同氏が吹っ切れた末に描いたスケッチ。

1985年からの3年間はカリフォルニアにあるCALTYに在籍していました。向こうでの役割は、日本との橋渡し。日本とは異なる部分も多く、勉強になりました。特に海外は“職域“があります。人の仕事と自分の仕事は明確に線引しないと、勝手にやってしまうと怒らせてしまいます。

もちろん現地のデザイナーと一緒にコンペもします。アメリカ人とやりあってね、どちらも一歩も引きませんから大変です。ただ、ちゃんとコンペで勝つことができたので、その部分では「向こうでもやれるぞ」と、とても自信になりました。

日本にいても、アメリカで作られたレポートを読んで、理解するフリはできます。ですが、一度向こうで実際に生活をしてみて、文化的なことや考え方に触れた上で、深いところから理解するのとは質が違います。そういったことも含めて、向こうでの3年間は非常に有意義な経験となりました。

日本に帰国してすぐ、チーフエンジニアに挨拶に伺ったんです。その時に、「お前は今何をしてるんだ?」と聞かれました。「これから1週間は帰国休暇中です」と答えると、「そんなもんとってないですぐに絵を描いてくれ」と言われ、そこでカリーナEDのプロジェクトに入ることになりました。1週間で絵を描き、2週間で1/5モデルを作り、評価委員会で2台のうちの1台に生き残りフルサイズを作って生き残ったという代物でした。

 

—ハイソカーブームの火付け役と言われたカリーナEDですからね。そんなエピソードがあったとは。とてもエレガントなデザインでビラーレスハードトップがとても印象的でした。当時、記録的なセールスで「トヨタの傑作」とまで言われていました。

今でも忘れられないのがトヨタ店のセールスマンの声です。「ようやく俺たちの乗る車ができた」と。デザイナー冥利に尽きます。

その後、テクノアートリサーチ*6 に出向もしましたし、帰ってきてからはIS300やハリアーなどを始め、LEXUSのブランド戦略を任されました。

 

*6 テクノアートリサーチ =  TECNO ART RESEARCH.トヨタデザイングループの一員として自動車、船舶、機器等をデザインしている企業。また、一般企業に対しても商品企画開発からデザイン開発、モデル製作などを行っている。

 

2003年のモーターショーではトヨタ・PMを、2005年の愛知万博では、i-unitのデザインをチームでまとめたり。

 

—当時話題になったのでよく覚えています。その後、名古屋工業大学の大学院で教授という道に進まれるわけですね。

名工大では、研究室でパーソナルモビリティーXFV*7をデザインしました。モビリティは、停車している時間も多いですよね。じゃあ、停まっている時と動いている時の違いってなんだろう?というところからスタートしました。車幅と車長が変化し、若者からハンディーキャップを持つ高齢者まで、ドアツードアで安全に移動が楽しめる仕掛けをしています。

*7 パーソナルモビリティーXFV = 名古屋工業大学木村徹研究室から発表されたパーソナルモビリティ。2010年のグッドデザイン・フロンティアデザイン賞を受賞。詳細はこちら

 

—2012年4月からは川崎重工業でデザインの統括業務をされているということですが、2013年のモーターショーでカワサキから発表されたトレッド幅が可変する3輪ビークル「J」ももしかして…

まあ、そこはノーコメントということで笑

Worldlesstechより

 

—良いデザインをするために大事なことを教えて下さい。 

人間の感覚は接する物や時間によって変化します。「驚いて、慣れて、飽きる」。これは、人が生きる為の本能で、止めることはできません。そして、感じ方、変化のスピードも人によって異なります。外的要因によって変わることもあります。どこにポイントを絞ってデザインするかはそのプロジェクトやターゲットとするユーザーによって異なり、ケースバイケースでさまざまな答えを要求されます。

人に感動を与え、人間が自然の一部である以上、その創作物も自然の一部に成り得ていることが重要です。「人為的」といわれるのは「不自然な」と言われたのと同意語で、どんな空間を創造する時も常に意識しなければいけません。又、意識しなくても出来るようにならなければいけません。その上に、己のオリジナリティーが表現出来た時、初めてよいデザインが出来たと言えるのではないでしょうか。

 

—では最後にメッセージをください。

子どもたちがカーデザイナーになろうと思ってもどうやっていいか分からないですよね。一般の方から見ると、昔から変わらず、分かりにくい世界。ですが、乗り物のデザインに関わってきた者として、クルマのデザインってこんなに面白いんだよ、ということを若者に伝えていきたいと思っています。

入社1年目で担当したマークⅡセダンですが、町中でみかけると、どこまでもついていきました。どんな人が乗っているのか見たいんですよ。リアコンビランプしかデザインしていないんですが、自分が関わったクルマなので、嬉しくて仕方が無いんですね。

人生は長くても100年しかありません。迷っている暇があるなら行動に移した方が良いに決まっています。

僕の場合は、勉強が嫌いでも必死になって絵を描いてきたからこそ、自分の軸ができていきました。幹のようなものです。そこから興味を持って何にでも頭を突っ込んできたから枝葉が広がっていきました。人に誇れるようなもの。何でもいいと思います。自分の幹となるものをまずは創りあげることを意識すると良いのではないでしょうか。

 

編集後記

トヨタでデザイン部長を務め、その後名古屋工業大学で教授、そこから川崎重工でチーフ・リエゾン・オフィサーを務めるという特殊な経歴をお持ちの木村徹さんを迎えてのスペシャルインタビュー。エポックメイキングな作品を数々手がけられていますので緊張しましたが、気づけば2時間半も時間が経っていました。若かりし頃は大変な時期もあったと思うのですが、とてもポジティブな雰囲気をお持ちの方で一切の苦労を感じさせません。飄々としながら、苦労を苦労と思わず己の道を歩んできた木村さんから発せられた「人生は短い。迷っている暇があるなら行動に移そうよ」という言葉が自然と胸に突き刺さりました。

現在は川崎重工でのお仕事だけでなく、2輪デザインに関する講演やデザイナーを育てるための様々な活動など多忙を極める木村さん。そんな中、インタビュー当日は、わざわざ小田原のNORI, inc.デザインスタジオまでお越しいただき、大変恐縮でございました。

木村さん、本当にありがとうございました!

 

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